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2013年6月9日日曜日

一部抜粋


「琴欧洲のわからずや...」

杏里はそう呟きながらズンズンと薮を掻き分け進んでいった。いくら女で非力だからといって、父の亡きあと家を支え農作業など力仕事を請け負ってきたのは自分である。気の細い母に心配をかけまいと、村の男衆に混じり懸命に泥にまみれてきた。

「とにかく!ノラ仕事は男の仕事。アンリサはお母サとおウチで待ってイテ」

いくら優しさからくる言葉だと判っていても、悔しかった。やはりお前には家や畑を支えきれないのだ、と突きつけられているようにしか思えなかった。村の皆に迷惑をかけまい、母に哀れみの視線を向けさせまいと、晴れた日には鍬をふるい、嵐の夜には土嚢を積んできた。すべてが無駄だったわけではないだろう。そう心の底では理解していても、どうしても琴欧洲に強い態度をぶつけずにいられなかった。

ふと気づくと、森のカナリ深い場所まで来ていた。鎌をギュっと握る右手は爪が白くなっていた。杏里は思わず沼の淵にへたりこみ、鎌を眺める。父の手の中にあったときはあんなにキッチリ手入れされていたのに、今は小さく錆びてしまっている。自分はなんて情けないんだろう。そういえばこの沼も父さんの生きていた頃は透き通って綺麗なお池だったっけ。本当に何度かだけれど、家族みんなで見に来たお池だ。

鎌を放り出し、膝を伸ばす。そうだ、今は琴欧洲も家族の一員なんだ。素性はなんにも知らないし、ただうちに間借りしているだけかもしれないけれど、かりそめにもわたし達は家族なんだ。だから、頼れるときには頼ればいい。未熟なりにだけれど、自分が今まで母を支えてきたことが消えるわけではないんだから。そうだ、母に教わってたぬき汁を作って琴欧洲が帰ってくるの待っていよう。そうしてさっきのことを謝って、今日一日をねぎらって、明日は一緒に代掻きを手伝ってもらおう。それがいい。

冷静になって考えてみると、琴欧洲がどうしているかが気にかかった。カッとなって我が家にただひとつの鎌を持って出てきてしまった。これでは草刈りなどできるはずもない。急いで立ち上がって手に取ろうとすると、鎌は草の上を滑り沼へ落ちてしまった。慌てて拾おうと足を踏み出すと、ズブっと嫌な感触がした。草に隠されていたけれど、どうやら思っていたよりも淵は手前に緩いらしい。鎌をたぐるほんの間に膝まで浸かってしまった。

「これはまずいかも...」

田んぼに入るのとは違う重みのある泥。底なし沼というやつだろうか。動けないままにじわじわと沈んでいくのが判った。助けを呼ぼうにも声は村まで届かないだろう。届いたところで間に合わないだろう。間に合ったところで自分を引き上げる方法なんてないだろう。へへっと声が出て、鎌をさっきまで腰掛けていたあたりに投げた。生きることを諦めたわけではないのだけれど、なんとなくそれが良いように思えた。もう肩まで泥に埋まっていた。

「アンリサ!!!!!!!!」

怒鳴り声が聴こえると同時に、右手を強く掴まれた。

「琴欧洲! どうしてここに?」

「アンリサ、心配ダッタ。探シテ追いカケルシタ。やっとイタ」

「もう無理だよ。琴欧洲まで沈んでしまうよ。お願い、手を離して」

「アンリサは助ケテくれた人。恩人の人。今度は、琴欧洲が助ケルバン」

そう言うと琴欧洲は杏里を沼から引き抜き、自分の肩に担ぎ上げた。沼に迫り出す木を指してさらに続ける。

「あノ枝に掴マッテ。そこカラなら、降りらレル」

「でも... 」

「早ク!」

杏里が樹上に移った頃には、琴欧洲の腰から下は沼に沈んでいた。

「アンリサ、良カッタ」

「良いわけないよ! 琴欧洲はどうするの!」

「アンリサ、お母サを大事に、守ッテ、ふたり仲良く暮らシテ。キットできルカラ... 」

「なに言ってるの! 馬鹿! 琴欧洲も一緒に帰るんだよ! 琴欧洲ー!」

「お母サにたぬき汁アリガトウ、伝エテ...」

「琴欧洲ー!」

こぽりと泡が音を立て、大銀杏が泥に沈んだ。杏里のしゃくりあげる声だけが森に響いていた。届かないとは判っていても、呼ばずにはいられない。何度も、何度も。繰り返し力なく口を動かそうとしたそのとき、沼が赤い光を噴き上げ、どうと泥の柱を立てた。

「... 琴欧 ... 洲...?」

背格好はたしかにそう見えた。しかし、赤く光る瞳と爪、鋼の色をした肌はまるで。

「琴欧洲... あなた... 本当は、本当は」

忘れられるはずもない。9年前のあの夜、父の命を奪ったあいつらと同じ姿。ただのすもうとりではない。禍々しいその瞳。その爪、その肌。忘れられるはずもない。

「あなた、あなたは」

赤い爪を持つ手を、力なくこちらへ差し出す。

「... アンリ... サ...」

殺人力士。人の命を奪うためだけにすもうをとる、哀しい存在。



(続く)